当時(昭和10年代)の代々木八幡の駅は、今で言えば小さな駅、映画「ポッポヤ」に出てくるような、北海道にある感じの駅であった。駅舎に入ると、正面が切符売り場で、窓の上には行き先と料金を書いた、大きな板があり、定期の料金表と並んでかかげてあった。 アーチ型の窓口で、「新宿子供一枚」 と声をかけ、切符売り場の職員が表のように並んでいる切符から、カシャっとすべるように一枚とり、日付を打つ機械にガシャっと通して「はい、新宿まで子供一枚」 と言って窓口を通してお金と引き換えに、切符を渡してくれる。そして左側に進む改札口では、木の仕切りの中の駅員さんが、パチンと切符の下側を切ってくれるのだ。駅員さんはいつも切符を切るハサミを、リズムよくカチャカチャとならしながら、仕事をしていた。 窓口の隣は手荷物を送る部屋で、カウンターはガッチリとした厚い板が張ってあり、荒縄で縛った大きな荷物・柳行李・小荷物が積んである。台秤(だいばかり)があって、駅員さんが荷物を管理し、荷物電車が来ると、忙しく電車に積み込んでいたものである。 新宿に行くには、改札を出て線路を渡り、向こう側のホームに行く。駅も短く、中央に小屋があり、板張りで5,6人掛けの固い長椅子などがあった。一両だけの電車が多く、二台の連結車は少なかったため、たまに二台つながった電車が来ると、「あっ!れんけつしゃがくるよ!」 と言ってはよく眺めていたものだ。 この頃の小田急線は、手でドア-を開けて乗り降りをしていた。 車掌さんが前の方からドア-を閉め、発車のピリピリを吹き、電車が動き出すと車掌室の手摺(てすり)につかまりながら、格好良く電車に飛び乗る姿にあこがれていた想い出がある。駅舎の脇には、小さな売店があり、新聞・たばこ・本などを売っていた。 戦争が激しくなると(昭和19〜20年)男性職員が少なくなり、勤労動員という名のもとに女子学生の姿が増え、よく「おばさんっ」と呼んでは、 「おばさんじゃないわよ!」とおこられたものだ。だが、暗い社会の姿に、少し明るさを感じる ものがあった。 駅の隣、田中煎豆店の前道の向こうに、宇田川に板を張って暗渠にして佃煮屋さん、パン屋さんと並んで湖月堂の菓子司ができ、お茶屋、桶屋とにぎやかになってきたのだが、時代が非常にきびしくなって、男手が国に取られ、原料・食材も少なくなり店を閉める者も多くなってきた。 今のまつや薬局の右側に橋があり、そのたもとに粗末な小屋の酒場(赤ちょうちん)があり、夕方になると焼き鳥を焼く良い匂いと、お酒の香りがよくしていた。ズングリとした店主が、時間になると大きな犬を連れて近所で買い物をしていたものだ。 まつや薬局と酒場の間の道を入ると、右側がしばらく草の茂った砂利をひいた広場で、そこに井上病院が建設され、その大きな病院が出来た事で街としても良くなっていった。 道をつきあたって、ラーメンよしだを右に行くと山手通りの下をくぐるトンネルがあり、その右脇が井上病院の裏になっていてトンネルの入口右側に門があり、堀の中に小屋があった。(今の青年座 のあたり)小学生の頃、「あの小屋は死んだ人を入れておくんだ。夜になるとあそこの門から運んで行くんだ!」などと噂になり、トンネルをくぐるのが怖くなって、一人のときなどはよく遠回りをして帰ってきたものだ。又、トンネルになる以前、左側に細長い家が、今のトンネルの長さだけあり、廃墟のようでいわゆる「お化け屋敷」のようであったから、その記憶がよけいに子供の恐怖心を生んだのかもしれない。 つづく 富ヶ谷一丁目通り商店会 富澤 信義
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