|  | 
|  | 
|  | 
| 
 
  | 
オリジナルの歌詞
    1912年、『尋常小学唱歌  第四学年用』に載った歌詞は次の通り。1930年頃までに生まれた世代はこの歌詞で習っている。1930年生まれである詩人の川崎洋は、学生時代に習った際にもこの歌詞であったことを著書に記している。なお、当時は作者の名前が伏せられていた。
 ※著作権消滅済
 
 一、
 
 春の小川はさらさら流る。
 岸のすみれやれんげの花に、
 にほひめでたく、色うつくしく
 咲けよ咲けよと、ささやく如く。
 
 二、
 
 春の小川はさらさら流る。
 蝦やめだかや小鮒の群に、
 今日も一日ひなたに出でて
 遊べ遊べと、ささやく如く。
 
 三、
 
 春の小川はさらさら流る。
 歌の上手よ、いとしき子ども、
 聲をそろへて小川の歌を
 うたへうたへと、ささやく如く。
 
 
 |  | 
|  | 
|  | 
|  | 
| 
 
  | 
歌詞の変更
    この曲の歌詞は2回改変された。このために世代によって覚えている歌詞が違うという問題ができた。
 1942年版の歌詞
 
 国民学校への移行に伴い教科書が改訂された。「春の小川」は3年生用の『初等科音楽 一』に再録されたが当時の国民学校令施行規則では国語で文語文を教えるのは5年生以上と定められていた。そのため、林柳波が歌詞を口語体に変えた。さらに3番の歌詞を削除した。
 
 一、
 
 春の小川は、さらさら行くよ。
 岸のすみれや、れんげの花に、
 すがたやさしく、色うつくしく
 咲いてゐるねと、ささやきながら。
 
 二、
 
 春の小川は、さらさら行くよ。
 えびやめだかや、小ぶなのむれに、
 今日も一日ひなたでおよぎ、
 遊べ遊べと、ささやきながら
 
 1947年版の歌詞
 
 戦後の1947年、最後の文部省著作音楽教科書である『三年生の音楽』では再び歌詞が次のように改められた。この変更は民間の編集した教科書にも継承された。
 
 一、
 
 春の小川は、さらさら行くよ。
 岸のすみれや、れんげの花に、
 すがたやさしく、色うつくしく
 咲けよ咲けよと、ささやきながら。
 
 二、
 
 春の小川は、さらさら行くよ。
 えびやめだかや、小ぶなのむれに、
 今日も一日ひなたでおよぎ、
 遊べ遊べと、ささやきながら。
 
 現在小学校で教えられている歌詞
 
 1947年版の歌詞を教えるところもあり、また、新仮名遣いに改められた1942年版の歌詞を教えるところもあり、地域、教科書、学校によってまちまちである。また、合唱用としてオリジナルの歌詞を教わる場合もある。
 
 
 
 
 |  | 
|  | 
|  | 
|  | 
| 
 
  | 
歌詞の由来
    小田急線参宮橋-代々木八幡駅間の線路沿いにある『春の小川』の歌碑 作詞をしたとされる高野の自筆原稿は発見されておらず、歌のモデルの川については決定的な資料はない。
 
 作詞当時、高野は東京府豊多摩郡代々幡村の一角(現在の代々木3丁目)に居を構えていた。当時の一帯は一面の田園地帯であり、宇田川の支流のひとつである河骨川と呼ばれる小川が田を潤していた。高野は家族ともどもこの川に親しみ、それを謳ったのがこの歌であるという説がある。 河骨川は1964年(昭和39年)に暗渠化されたが、かつての川の岸辺、小田急線の代々木八幡駅にほど近い線路沿い(代々木5丁目65番地)には歌碑が建てられ、渋谷区教育委員会による解説が添えられている。また、渋谷区内で宇田川や渋谷川に合流することから、歌の舞台としてこれらの川が紹介されることがある。
 
 ただし、高野が長野県中野市出身であることから、この小川は高野の地元である長野県内のことではないかとする説もある。
 
 
 |  | 
|  | 
|  | 
|  | 
| 
 
  | 春の小川の合唱が聴けます。心なごむひとときをおくつろぎ下さい。
 
 |  | 
|  | 
|  | 
| 
 
  | 
地図をたたくと拡大します。
    渋谷川・古川は、渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2.6kmを渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4.4kmを古川と呼んでいます。また、本川(宮益橋)の上流域と支川は、すべて暗渠構造で下水道化されており、本川の稲荷橋の下流から開水路となり、JR浜松町付近で東京湾に注いでいます。
 
 渋谷川・古川あわせて、流域面積は22.8ku、河川延長は7.0kmの二級河川です。
 この地図は、東京建設局HPの渋谷川・古川流域図より流用
 
 
 |  |